シンポジウム「美術」

お久しぶりです。最近引っ越しやらに追われてほとんど更新できていませんでした・・が、時間の合間をぬっていくつかシンポジウムなど見に行っていました。今日はBOICE PLANNINGで行われた以下の催しへ。


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パネリストは以下。

青山悟(美術家)
池田剛介(美術家)
田中功起(美術家)
雨宮庸介(美術家)
土屋誠一(美術批評家)


「美術犬(I.N.U.)」による第一回目の企画ということで、テーマはずばり「美術」について。作家4名と批評家1名の計5名による3時間トークということで、なかなかボリュームのある感じでした。話自体はいろいろな方向に飛び火しつつも、おおよそ根底には次のような問題意識があったのかなと思います。例によって、かなり手荒に要約すると・・・


まずマルチカルチュラリズムを経て、作品制作や鑑賞においてコンセプトあるいはコンテクストが自明なものとして要求されるようになってきたこと(これはコンテクスチュアリズムの環境化という言葉で表わされていました)。そして、そういったコンテクスチュアリズムの環境化の中で、常にコンテクストと背中合わせでないと成立しない作品の「自律性」はいか様にあり得るのか、ということ。これに関しては、モダニスティックな意味での古き良き(?)自律性の概念は成立が難しいという前提の上で「自律性はもはやありえない」という意見と「コンテクストとの背中合わせから出発しつつも、事後的に立ち上がる自律性を認める」という意見が主に出されていたと思います。つまり「コンテクスチュアリズムの環境化‐作品の自律性」という図式がある程度あったのではないかと。


僕としては、これらの議論はとても重要な論点であると感じる一方、「コンテクスチュアリズムの環境化」に対する危機意識があるならば、その対抗軸に必ずしも「作品の自律性」という概念を設定する必要はないのではないかと思います。というよりも、自律性というと、否が応でも何かしらモダニズム的な意味が付随しかねない。むしろ、コンテクストとの背中合わせから出発しつつも、そのコンテクストによる作品の一元的な回収にいかに耐えうるか、という作品としての耐久性みたいなものが、結果的に作品の強みとして読み替えうるのではないかな、と。その意味では、シンポジウムでも言われていた「コンテクストとの背中合わせから出発しつつも、事後的に立ち上がる自律性を認める」という意見に近いのですが、しかしながら、コンテクストを引き剥がしていった結果残る自律性のようなものというよりは、常にコンテクストと背中合わせの状態で、あるいはコンテクストとの拮抗状態の中で機能する「耐久性」のようなものを考えたいです。


っていうと「でもその耐久性って誰が保証するの?」と突っ込まれそうですが、確かに歴史上の名画でいうところのアウラとか霊性みたいなことになるとさすがにベンヤミン以前って感じなので、ここでは不特定の他者への開かれということを付け加えておきたいです。もう少し正確に言うと他コンテクストへの開かれ、とでも言いましょうか。


だいぶ極端な例ですが、たとえば料理を考えた時に、とても美味しい料理があったとして、その理由として「食材が良いんだ」「レシピが優れている」「使っている調理道具が特殊だ」などなど説明が可能だとします。これを仮に、作品をコンテクストによって回収することだと考えます。逆に「いや、しかし食材やレシピでは説明しきれない、不思議な美味しさがこの料理にはあるんだ」とか「やはり超一流の有名コックだからだせる味なんだ」ってことになると、これはアウラや作家性みたいな話になる。ところが、これは全て「味」に関する議論なんですね。一方で、栄養士の人に言わせれば「確かに良くできているし、味は美味しいかもしれないが、実はこの料理って栄養学的にはかなりバランス悪いんだよね」っていうことにもなりうるのではないかなと。あるいは逆に「栄養も良く考えられている」ってことでも良いのですが。


何が言いたいのかというと、コンテクスチュアリズムの環境化においては、作品はコンテクストと背中合わせでないと出発しえないとしても、そのデフォルトのコンテクスト以外の、他のコンテクストへ開かれうること(料理の例でいえば、味のコンテクストから栄養のコンテクストへ開かれうること)が、事後的に作品の耐久性を立ち上がらせるのではないかなと考えているのです。そういった他(多)コンテクストへの開かれの潜在性は、あらかじめ作家が意図的に作品に落とし込む場合もあるだろうし、半ば無意識的になされる場合もありうると思うのですが、このようなコンテクストの開かれをいかに誘発するかこそが作品の厚みであるならば、作品はコンテクストの交錯路として捉え返すことができる。問題は、このコンテクストの開かれがどの程度の「位相としての幅」をもってなされるか・・・ということだとは思いますが。少なくとも現在の美術の位相には存在しないものを引っ張ってきて、美術のコンテクストとクロスオーバーさえる程度の幅があるならば、それなりに魅力的な作品と言えるのではないでしょうか。恐らくそのためには、作家は常に美術を念頭に置きながらも、いかに幅広い情報や文化的動向にアンテナをはってそこから栄養を吸収しているか、ということが重要なのではないかな。パネラーの一人である池田剛介さんが、ベンヤミン経由で翻訳におけるズレの創造性みたいなことを言ってましたが、そこに少し近いのかも。


シンポジウム自体は、ここで僕が書いた内容からは大いにはみ出すことも多々あり、より多角的な内容でしたが、僕の興味は大体こんな点にあったという感じです。


今日はこんな感じで・・・おやすみなさい。