池田剛介個展 "Plastic Flux"

金曜日はLOWER AKIHABARAで池田剛介さんの個展 "Plastic Flux"のオープニングへ。



http://homepage3.nifty.com/lowerakihabara/exhibition01.htm


作品は透明のアクリル板を支持体に、その上に樹脂で水滴を緻密に配置した、シンプルだけれど強度のある画面構成の絵画作品。久しぶりの個展ということだが、これまでの池田作品との連続性と切断が同時に見て取れるという意味でも見応えはある。絵画、あるいは誤解を恐れずにざっくり言ってしまえば抽象絵画という形式にあたるその作品は、彼が一貫した問題設定に取り組んできたという事実を知らなくても、一過性のものではない深く広い美術史のパースペクティヴが背景にあることを鑑賞者に淡々と伝えてくれるだろう。しかし、稀有な作品は、当然ながら常にアクチュアルで現在形の問いかけをも孕んでいるはずだ。そんなことを考えているうちに、インターネットで取り寄せた剥製の周囲を透明な球状の膜で覆った名和晃平さんのPixCellのシリーズ(下図)を思い出したのは僕だけだろうか。



PixCellの球状の膜とPlastic Fluxの樹脂の水滴は、どことなく似た部分がある。池田さんは四谷アートステュディウムでのレクチャーで名和さんを取り上げたり、東京芸大で昨年3月に行なわれたグループ展「Vivid Material」では名和さんも池田さんも出展していたので、両者の間にある種の影響関係があるのは自然なことだろう。しかし、影響関係というのは、本来そこまでわかりやすく目に見えてくるものとは限らない。恐らく、PixCellとPlastic Fluxの類似性は、自然発生的な影響関係によるものというより、作家に共有される問題意識から展開され、半ば必然的に結露したものの結果だと言う方が正しいだろう。


とはいえ、両者は全く同じわけでは当然ない。PixCellもPlastic Fluxも、基本的にはシンプルかつ無駄のないつくりをしているが、そのシンプルさと視覚的類似性が逆説的に強調するのは、まずはメディアの差異、つまり名和さんが彫刻でやったことと池田さんが絵画でやろうとしたことの差異である。彫刻と絵画の差異?こんなあまりにも古びた問いかけを、なぜわざわざ持ち出す必要があるのだろうか。確かに、恐らくどちらかの作品だけならこんな立問は不要だろう。しかし両者が並ぶ時、メディアの差異が、いやむしろ彫刻と絵画という異なる手段を用いることで明らかになる、二人の狙いの違いが際立つ気がする。


良く知られているように、名和晃平のPixCellシリーズはインターネットを使って取り寄せた動物などの剥製を使用しており、パソコンのディスプレイのPixelという言葉と、細胞という意味のCellという言葉が掛け合わされている。情報論的なパラダイムと生態論的なパラダイムが巧くドッキングされているということだ。そして、インターネットを介してでなければ剥製の最初のイメージに出会えないという事実は、実体はそこにあるにも関わらずPixelに分解されてからでなければ知覚できないイメージとしての彫刻、つまり断片的イメージの束としての彫刻というアイデアを補完するのにうってつけのコンテクストを提供している。一方、これら断片化されたイメージは、欲望の視線の複数化にも対応しているだろう。インターネットを通じて不特定多数の視線が同一のイメージを欲望すること。現実にしばしば起こりうるこのような欲望の視線の複数化は、Cellというマテリアリスティックな次元とPixelというインフォメイショナルな次元におけるイメージの断片化とともに、名和さんの作品の中に織り込まれているはずだ。


情報論的な、あるいは生態論的な次元に加えて、PixCellシリーズに欲望の次元が導入されることは、それが彫刻作品としていまだに強度の中心性を持っていることと無関係ではない。なぜなら、おそらく欲望は互いに掛け合い、増幅し、集中するからである。視線は複数化されるけれども、それらは欲望の対象に対して一点集中的に収束する。PixelまたはCellとして断片化されたイメージも、実際は中心にある実体としての剥製に支えられることで全体性を保持している。鑑賞者はぐるぐると作品の周りを巡り、キラキラと輝く表面を目の当たりにしつつも、やはり自分が何を見ているのか知っているのだ。


同様に、蝶や金魚、落ち葉などを型取りし、透明なアクリルボックスの中に設置した池田さんの以前の絵画作品Pictureシリーズでは、18世紀的な欲望の視線が意識的に呼び込まれていた(下図)。



だが一転して、Plastic Fluxの平面は、欲望の視線を複数化したまま乱反射する。そこには具象的なイメージは何もない。なるほど、作品は確かに洗練されキレイである。そこで鑑賞者は欲望をそそられ、もっともっと視線を投げ掛けようとする。しかし、すぐにそれが無益なこと、そこには何も受け皿が無かったことに気づく。欲望を蓄え、増幅させ、醸造するための具体的な貯蔵庫がそこにはないのだ。それを知った時に、唯一画面に確認できるのは無数の水滴の羅列であり、その光の乱反射は、画面上に投げかけられた欲望の視線が、そこには自分の居場所がなかったと気づいて慌てて逃げだすための非常口である。そして欲望の視線が立ち去った後、Plastic Fluxの平面は、まるで何事も無かったかのように平然とそこに佇んでいる。


PixCellにおける断片化されたイメージは、複数化された欲望の視線が一つ一つの粒を通じて中心に向かうための導入口であり、集合した視線は最終的にマテリアリスティックなCellの次元にまで強化されることによって作品を構成することになる。他方、Plastic Fluxの(まるで雨粒のような)水滴は、勘違いして画面に群がった欲望の視線たちを平面上から爆発的に追い返すための細やかな噴出口であり、その平面はおよそ絵画作品と言われるものがそうであるところの外界を映し出すための「窓」ではなく、夕立の時に雨が部屋に入ってこないよう急いで閉められる「窓」——雨が上がった後に陽の光に照らされて雨粒が輝くような「窓」——なのではないか。そんな風に考えていると、Plastic Fluxの平面に散りばめられた水滴は欲望の視線が立ち去った後の痕跡のようにも思えてくる、まるで台風の後の雨粒のように。そして、PixCellとPlastic Fluxがそれぞれ彫刻であり絵画であるということも、ここに書いたような観点からすれば理に適っていると言って良い、そんな気がする。


図らずも大型台風が通過した後日、晴天の中で始まったこの展示は月末まで。照明の具合なんかも考慮すれば、多分オープニングの時より通常時の方が作品の見え方が良いのではないかな。是非、オススメ。