批評の現在、行ってきました。

今日、竹橋の近代美術館で行われたシンポジウム"批評の現在"に行ってきました。11人ものパネリストが入れ替わりで計4時間以上は話をし、その内容も多岐に渡っていたため、全体の流れを描写するのはなかなか厳しいかなと。なので、集中力が持続して聞けていた前半部分について、感想を少し書くにとどめようと思います。主に黒瀬陽平さんと池田剛介さんの論旨について、あくまで部分的にですが。

この前半部分もさらに二つに分かれていて、それぞれ冒頭で黒瀬陽平さんと千葉雅也さんのプレゼンテーションが10分づつくらいあり、それに続いてディスカッションが50分展開されました(この時間配分は後半も同じ)。

議論の展開をざっくり追ってみます。まず黒瀬さんから、ニコニコ動画などのネット上のアーキテクチャにおけるアニメ作品の受容のされ方についての危機意識の表明があり、この危機意識というのは端的に言えば、ひとつの自律した作品としてのアニメがニコ動というアーキテクチャに放りこまれる=MAD化され、さらにコメント機能による確定記述の増加、タグ機能による横滑りなどの手続きを経てその作家性を失っていくということでした。これに対する作家側=アニメクリエーター側からの抵抗の作法として彼が挙げていた例には、存在論的なものと記号論的なものがあり、前者はアニメのキャラクターをOPやEDで主題歌にあわせて踊らせること、後者は同じくOPやEDで紙芝居的演出を用いるということなどです(細かくは省きます)。

抵抗という言葉が一般的に喚起する意味合いを省みれば、ここで黒瀬さんが提示する例は抵抗というにはささやか過ぎるのでは、という疑問も当然ありますが、本人がこれらの事例は"局所的な"抵抗に過ぎないこと、またアニメの世界をそこで完結したものとして考えていることなどからして、あまりこの点を執拗に問いただす必要はないでしょう。

いずれにせよ、黒瀬さんの主張の一番のポイントは、こういったニコ動的なMAD空間でどうやって作家性を確保するかということであり、このことはシンポジウム中に福嶋亮大さんが適切にまとめていました。確か福嶋さんがいっていたと思うのですが、ニコ動などのネット上のアーキテクチャにおいてはあらゆる情報がデータやパターンとして可視化され、それらが随時束ねられたり分節されたりするために基準となる単位というものが成立しづらい。黒瀬さんはそういったアニメをとりまく消費状況において成立しうる単位として"キャラクター"を重要視する、ということでした。これは理解できます。

一方で、池田さんは、そういったアーキテクチャの概念の適用範囲をネット空間から現実空間に拡張して考えていて、規範意識などの具体的な作用を介さず、より無意識的にさりげなく行為者の行為を先導してしまうような管理の体系を、現実空間におけるアーキテクチャ型管理としていたように思います。そういった管理のメカニズムは、スイカのように個人情報の可視化と公共性(利便性)を一挙に実現するような、現実空間の情報化という点で、ネット上のアーキテクチャのあり方と引きつけて考えることができる、ということだと思うのですが(このあたりで、石岡良治さんがネット空間と現実空間を二項対立的に考えることの凡庸性を指摘したことは重要だと思いますが、ここではひとまず通過します)、そういった状況における抵抗のあり方としてバンクシーのDesignated Graffiti Areaのプロジェクトを紹介していました。これは「グラフィティのためのエリアです」といった意味合いで、公共の指示看板などを擬態して、バンクシーが勝手に街中に残していくサインですね。

池田さんはここで、バンクシーが壁にDesignated Graffiti Areaの文字を書き、そこに後から他のグラフィティライターが実際にグラフィティを書き加えていく経緯について、都市空間のデータの可視化を指摘していたように思います。これ自体は正しい認識です。

ここまではおおよそ、シンポジウムの中で議論された内容の一部の要約ですが、これを踏まえた上で、僕の考えを少し。

全体として、ネットと現実それぞれの空間におけるアーキテクチャの作動とそれに対する抵抗ということ、あるいは美術的な言い回しをすれば、作品は消費の加速に乗って駆け抜けるべきか、固有的なものとしての作家性を確保するべきか、ということが問題になっていて、ネット空間においてはOPやEDで踊らせる事例が、現実空間においてはバンクシーが、それぞれ抵抗の事例として紹介されたわけです。このように見ると一見、アニメクリエーターの抵抗とバンクシーの活動が(アーキテクチャへの抵抗という点で)同じ位相に立っているように見えるのですが、実はやり方がちょっと違うのです。というのも、前者の場合、アニメクリエーターは自らの作家性が可視化されないように(=ブラックボックスの中の魂を確保できるように)抵抗するのですが、後者においてバンクシーはむしろ都市空間のデータをタグという形で可視化させるべくDesignated Graffiti Areaの文字を書く。ここで可視化されるのはバンクシーの作家性ではなく都市空間のタグ群であって、バンクシーはむしろそれらが可視化されるためのきっかけを与えている(池田さんが言うようにフラグを立てている)のであって、バンクシー自身の作家性はそれによって解体されるどころかむしろ成立しているわけです。そして、これら全体の作業は結果的に現実空間のアーキテクチャに対する抵抗として機能していくわけで、ここがバンクシーの巧妙な点でしょう。

これは結局、アニメクリエーターの場合とバンクシーの場合で、作家性に質的な相違があることを意味しているのだと思います。前者は、古典的な意味での作家性であり、実体としての作者がそのアイデンティティに基づき、固有の作品が制作されるという考え方を反映しています。他方、後者において重要なのは、制作というよりはプロデュースするということです。つまり、実体を持つ作品を制作するということではなく、ある事態や現象をプロデュースするということの創造性、可能性ですね。バンクシーはこのプロジェクトの帰結までを作家として担っているわけではなく、きっかけをプロデュースして後は成り行き次第ということなのですが、これは前者におけるアーキテクチャvs作家性という図式に比べると、とても巧みなポジショニングと言えるのではないでしょうか。

一般にプロデュースというと、何かビジネスライクなニュアンスをはらみますが、今回書いたようなバンクシー的なプロデュースの創造性こそ、今日の美術家に要請される能力かもしれません。ただ、これが単なるワークショップやアートプロジェクト型のものになってしまうと、少し退屈な感じがしてしまう。バンクシーの魅力は、こういったプロデュースの喚起力とグラフィティ的な突き抜け感が見事に噛み合っているからでしょうか。

今日はこの辺で、おやすみなさい。