前回の補足とオスジェメオス

先日、批評の現在というシンポジウムに行ってきた感想を書きましたが、今日そのシンポジウムに参加していた黒瀬陽平さんと話す機会があり、僕がブログで書いたことは黒瀬さんの考えを十分に反映できていなかったようなので、以下で補足します。


僕は先日のブログで「黒瀬さんの主張の一番のポイントは、こういったニコ動的なMAD空間でどうやって作家性を確保するかということ」と書きましたが、これがだいぶ外れた認識だったようで、黒瀬さんはアニメクリエーターの作家性の擁護ということは考えていないようです。彼の主張はむしろ次のようなことを前提としています。90年代以降のアニメがキャラクターアニメであり、そこでは創り手であるクリエーターとその創作物であるアニメの間にキャラクターが介在すること、このキャラクターが最小単位としてアニメを構成していること、さらにキャラクターが蝶番的に作用することでアニメにおける(あるいはアニメからの)多様な広がりが派生すること、ところがニコ動などではタグ機能やMADによって、最小単位であるはずのキャラクターの圏外にまで横滑りが展開してしまうこと、など。


そこで、黒瀬さんの論点は、こういった横滑りに対してクリエーターの作家性を擁護するということではなく、むしろクリエーターの存在は抜きにして、まるでキャラクターが"自ら"MAD化を先取りするような振る舞いをしているように見える=抵抗しているように見える、というところにあります。自ら、というのが重要で、黒瀬さんはクリエーターの存在を捨象しつつ、このキャラクターの振る舞いを存在論的に考えていて、最近のレクチャーなどでは、OPやEDでキャラクターが自ら踊っているように見えることなどを、その一つの事例として紹介しています。つまり、MAD化され無理矢理踊らされる前に、キャラクターが自ら既に踊ってしまっていることで、MADにおける被操作性を回避している、ということでしょうか。抵抗という言葉が用いられるのはこの意味であって、作家性の擁護というニュアンスはなかったようです。小さくない誤認だったので、改めて上のように補足しました。あしからず。


それと最近、東京都現代美術館でネオトロピカリア展を見てきました。色々ありましたが、オスジェメオスが展示されていてビックリ。おそらく都現美で最初に展示されたグラフィティアーティストですかね。


都現美
http://www.mot-art-museum.jp

■オスジェメオス
http://www.brasil2008.jp/tokyo/post_56.html


オスジェメオスは個人的にはとても好き。彼らはサンパウロのストリートで描いていたということや、その交友関係からグラフィティアーティストとして認知されています。ところが、ジェネラルな意味でのグラフィティの要素はヴィジュアル的にほとんどなくて、どちらかというと絵本や童話を連想させる不思議な世界観のペインティングです。つまり、形式的にはグラフィティなのですが、コンテンツはグラフィティではない、と考えられるのですね。



もともと、僕が考えていたポストグラフィティというアイデアは、コンテンツが独自に発展したことが形式としてのグラフィティの解体を促しているという状況を前提にしていたのですが(Review House 02号掲載の「グラフィティからポストグラフィティへ」参照)、その意味でオスジェメオスは真逆にも見えるわけです。屋外空間に書いてあれば何でもグラフィティであるという、ある意味でとてもフォーマリスティックな態度ですね。であるからこそ、美術としても受け入れられやすかったのかもしれません。形式的には美術が欲するステレオタイプなグラフィティとしての要件を満たしつつ、中身は極めてポエティックなペインティングなのですから。そこにはブラジル人でありグラフィティアーティストである彼らへの、マルチ・カルチュラリズム的歓待が二重三重に存在するのかもしれないし、また20c初頭のメキシコ壁画運動などの成果が、特定の傾向を持つグラフィティアーティストと美術の文脈を特に接近しやすくしているようにも見えます。