VOCA展とアーツ&クラフツ、または限界芸術

今日はスタジオに行く前に、上野でThe Vision of Contemporary Art展(VOCA展上野の森美術館)と、アーツ&クラフツ展(東京都美術館)をチェック。


VOCA展は、展覧会としての見せ方というか構成というか、いまいち冴えない感じでした。なんとなく、院展などのアカデミックな展示のような雰囲気が全体に出ていて、別の空間で見たら良く感じられるであろう作品でも、どうもマニエリスティックで安っぽく見えてしまっていたと思います。


アーツ&クラフツ展は、ウィリアム・モリスから民藝までという副題が示す通り、イギリスをはじめヨーロッパから日本まで、20世紀初頭に興った芸術と生活の結びつきを見直す文化運動に焦点をあてたもの。見終わって気になったのは、モリス周辺の作家のいくつかの作品に、ゴーギャンやルソーの絵画のような非常にエキゾチティックな雰囲気があったということです。イギリスのアーツ&クラフツ運動などでははっきりと言明されていることですが、そもそもこういう民族固有の古き良き生活文化を取り戻すという運動はどれも、そこで復旧の対象とされている当の文化が失われつつあることへの反動として起こってくるという側面があり、これは言い換えればそういった伝統的体質の生活文化がそこで初めて発見されているわけです。もちろん、そういった生活作法そのものはそれ以前からずっとあるのだけれど、しかしそれは意識化されないあまりにも自然なものとしてあるわけで、それがアーツ&クラフツ運動において「古き良き生活」として、つまり理念として発見されるわけですね。歴史は常に現在性において把握される、ということです。


ウィリアム・モリス


一方でゴーギャンは、近代文明の中で廃れていく(と彼には感じられた)人間性に絶望し、自然人としての生活を求めてタヒチへ行くわけですが、この点でアーツ&クラフツや民藝復興とエキゾティズムは同様の路線にあるとも言えます。ちょっと違うけど、似たようなことは僕たちの日常生活でも普通にあるわけで、例えば少し凝った居酒屋なんかに行くと「モダン和」とでも言わんばかりの内装になっていたりしますが、それが日本人である僕らにもとてもエキゾティックに感じられてしまいますね。逆に、現代日本の固有文化といっても差支えない携帯電話ですが、決してエキゾティックではない(笑)これは、携帯カルチャーが失われてしまった理念的なものとしてではなく、自然に当り前のものとして今の生活に溶け込んでいるからです。


ゴーギャン


このように考えると、日本で柳宗悦なんかと民藝運動に参加したバーナード・リーチは、まさに象徴的な存在とも言えます。イギリス人であるリーチにとって、日本の民藝は正にエキゾティズムの対象であると同時に、復旧すべき古き良き生活文化でもある。近代化に対する反動としての民藝運動とエキゾティズムが、リーチにおいて重なってくるわけです(まあ、リーチは幼年時代を日本で過ごしているので、普通のイギリス人とはちょっと違いますが)。イギリスに帰国後、濱田庄司と共同制作した「生命の樹」という作品なんか、正にエキゾティズムと民藝の融合という感じでかなり良い。


バーナード・リーチ


ともあれ、こういう理念としての生活文化という思考が、ある種のパラドクスを孕んでいることは容易に理解できます。というのも、これは鶴見俊輔の限界芸術という概念にも通じることですが、高級文化としての芸術とは別様に定義される生活作法を一つの文化価値として理念化することは、いわゆるダブルバインド的な状況になってしまうからです(つまり、それは生活である(=芸術ではない)と言明しながら、しかしそれに芸術になるよう要請しているということ)。



鶴見俊輔 『限界芸術論』


話をVOCA展に戻すと、五木田智央や鈴木ヒラクといったサブカルチャー / ストリートカルチャー出身の作家が、はっきり現代美術と銘打っているこの展覧会に参加しているのは、上の限界芸術の問題とつながってくる部分があるようで興味深いです。水戸芸で行われたX-Color展もそうですが、こういう問題意識は時代や組み合わせを超えて、一定の普遍性 / 不変性を持っていると言えそうです。



五木田智央


というわけで、福住廉さんの『今日の限界芸術』を読んでみようかな、と思う今日この頃(笑)今日はこの辺で、おやすみなさい・・・。


福住廉 『今日の限界芸術』