美術犬シンポジウム「絵画」

ワンダーサイト本郷で行われた、美術犬(I.N.U.)の第二回目シンポジウムに行ってきました。


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主題はずばり『絵画』です。パネリストは以下。


内海聖史(画家)
千葉正也(画家)
藪前知子(東京都現代美術館学芸員
佐藤純也(美術家、美術犬)
土屋誠一(美術批評家、美術犬)


前半しか見れなかったので、気になった論点だけかいつまむと、最初に各パネリストの基調報告があった後に、作家である内海聖史さんの作品や制作趣旨を中心に話が展開したように思います。


内海さんの提出した主張は「ジャンルとしての絵画は終わったとか、絵画批評や制作をめぐる理論枠の崩壊などといった言説は美術史観の論理的帰結によるものでしかなく、実制作者である作家としては、そのようなペシミズムとは違うところで実作品としての絵画の可能性を考えたい」というような内容だったと思います。そのための一つの切り口として、素材(ここでは主に絵具)の使用可能性を考えること、例えば美術史における絵画の行き詰まりとは別次元で、素材の歴史としての素材史を考えることで、絵画にとって何か新たな展開を想定しうるのではないか、ということも述べていたと思います(あくまで僕の解釈であり、内海さんご本人が上のような言葉をそのまま語っていたわけではありません、あしからず)。


それに対し、その素材の可能性とは具体的に何か?という質問が他のパネリストからなされた時に「絵具の美しさである」と答えてしまったのは、内海さんの作家としての健全さであると同時に、素朴さでもあったのだろうと思います。確かに「美しさ」や「感覚的な良さ」というものは、少なくても批評的な観点において、はるか昔に葬り去られた主観的価値判断に過ぎないのだろうとは思います。


とはいえ、一方で内海さんの提案した「美術史における絵画の行き詰まりとは別次元で、素材の歴史としての素材史を考えること」は、一つの可能性を含んだ観点だと思いたい。絵画の大きな物語=大きな論理枠の構築なのか崩壊なのか、それは必要なのか必要ではないのか、という二項対立で考えるのではなく、様々なコンテクストを作品という実体のもとでクロスオーヴァーさせること。素材史という文脈を練りだすことで、近代美術史における絵画観を生産的にずらしていくこと。内海さんが今日述べていたことは、そういう意味で捉えることが可能だと思うし、それが作家的な視点から生まれているといえる点で、とても有意味だったのではと思います。というあたりが、個人的に考えたことでした。かなり大雑把ですが。


今月の26日には、僕の新しいスタジオでもある北千住のcon tempoというスペースで、絵画についてのシンポジウムを行います。そちらも乞うご期待!