Out of the Context Mashup

先日、作家の荻野竜一さんとのトークを終えて考えたこと。荻野さんの掲げるテーマでもあるOut of the Context Mashupについて。


荻野さんによればOut of the Context Mashupとは、一言でいえば複数のコンテクストをぶつけることで、互いの本来のコンテクストを明確に際立たせること。要はコンテクスト同士のコントラストをつけることかな、と。もともとクラブミュージックの用語であるこの言葉のの例として荻野さんは、ニルヴァーナグランジ?)とビヨンセ(R&B?)を同期させた曲を出していました。また、次のようなことも言っていた。例えば、現代社会ではテレビをつければポップミュージックの歌手が「自分はアーティストです」などと言っていて、アートという言葉が乱用されている。アートという言葉の意味=コンテクストが曖昧になっている、または見えづらくなっているこういった状況の中で、Out of the Context Mashupは認識または作品制作の有効な手段になるのではないか、と。


なるほど、論理としては非常に明快でわかりやすいです。とはいえ、あまりにシンプルで素朴でもあります。そもそも美術におけるコンテクスチュアリズムというのは美術という言説の枠組みの中において機能するものであり、テレビの中での言葉の用法とは区別して考える必要があるし(いや、必ずしもそうとは限らないかもしれないけれど、まあ基本的には区別されるべきではないか)、あるいは単に言葉やコンテクストの正当な用い方に固執するというのではOut of the Context Mashupは反動的にもなりかねないわけです。さらに重要なことは、ニルヴァーナビヨンセの組み合わせがどの程度インパクトがあるのか、ということ。むしろ、異質な組み合わせで新たな商品価値を作っていくという着眼点は、正に資本主義的な論理でもあるわけですから(シーチキンマヨネーズおにぎりからタラコスパゲティ、演歌を歌うジェロまで)。一見して滅茶苦茶な組み合わせが、当然のようにすんなり受け入れられてしまうことこそ、価値観の乱立するポストモダンなわけです。もしそこで、組み合わせることだけではなくて、組み合わせることで元のコンテクストを際立たせることが重要なのだ、ということなら、それが反動的にならないためにはもう一歩踏み込んだ方法論化が必要でしょう。


とはいえ、荻野さんの論点は、先日con tempoで行われたシンポジウム『絵画を再起動する』で、千葉雅也さんが言っていた次のようなことにも通じているような気がする。


ポストモダンとは、過剰にすべてが前景化されている状態だと言われるときがあります。たとえば、東浩紀は「過視性」という言葉を使っていますね。あるいは、「過透明」というふうに言ってもいいかもしれない。しかし過透明になると、あらゆるものが、すべて「謎」として「現れて=隠れて」くる。「過透明な暗号」とでも言えましょうか。不透明性と過透明性とが、ある種イコールになっているような状態があるように思えます。」


http://www.ottr.cc/con_tempo/archive/april/reboot_1.html


コンテクストが溢れているからこそ、コンテクストが見えづらくなっている、ということでしょうか。一方でコンテクスチュアリズムの環境化ということを言う人もいますが、こういった状況でOut of the Context Mashupというコンセプトは、より先鋭化させることで有効になるかもしれない、そんな気はします。今後に期待。